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2009年6月20日 (土)

臓器移植に思うこと。臓器は物か?

十八日衆院で臓器移植法改正A案が通過した。家族の同意で十五歳未満でも提供可能ということだが、私が引っかかるのは「脳死は人の死」を前提にしていることだ。

つまりまだ身体が温かく、心臓は動き、髪や爪は伸び、汗までかく。それで“死”といえるのだろうか?このことは、これまでの日本人の生死観に対する概念を大きく変えることになる。なぜそのような流れになったのかは、医療の発達により臓器移植が可能になり、不治の病から解放されるからである。(それがたとえ数年であっても)

確かに多くの患者がそれを待ち望んでいる。明かに臓器提供は足らないのだから(しかも心臓停止からでは間に合わない臓器もある)法律が変われば臓器提供は増えるだろう。現行では莫大な金を(1億とも4億ともいえる)払って海外まで手術を受けなくてもよくなるだろう。

しかしドナーや家族の立場になったとき、「脳死は人の死」を受け入れることができるのだろうか?

私はこの法案に大変違和感を覚える。というよりあえて誤解を恐れずにいえば、他人の臓器を移植すること、そのこと事態に違和感を覚えるのだ。確かに人の命は重く大切だ。しかし、臓器のやりとりに不快感を感じてしまうのは何故だろうか?

それは生きることが”善”であり死は忌むべきものというとらえかたである。死に逝くこともまた大切な”生”の一部である。物事を合理的に考えれば、利用するものは利用してそれが、人の命を助けるならこんな良いことはない。だから彼方もドナーになりなさい。この考え方は合理主義的キリスト教のように思う。日本の仏教的精神的風土には馴染めないのではないか。

一見生命を尊重しているようだが、私にはフランケンシュタインの悲劇しか思い浮かばない。科学万能主義の危うさを感じてしまうのだ。生と死は一対である。別けて考えるべきではない。どこから生でどこから死なのかそれを医療の立場からのみ決定すべきではないし、ましては臓器は物であって物ではない、売買するようなものではないのである。世界の貧しい国の子供たちの裏の臓器売買も危ぶまれる。

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コメント

ふだん深層に近いくらいのところで私もうつうつと考えていることです。臓器提供を拒否したい人の権利も大切にしてほしいのです。人類愛のすべてが光に向かっているように錯覚している人たちの声は大きすぎる。

投稿: shoko | 2009年6月27日 (土) 14時26分

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