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2009年5月 3日 (日)

死に逝く愛犬の聖なる時間

14年間飼っていた犬(ボビー)が4月27日午前2時に亡くなった。ボビーはハスキー犬とラブラドール犬のミックスだ。体形はハスキー犬で、ベージュとホワイトの長毛にハスキー犬の特徴である黒の隈取の大変ハンサムな犬だった。性格はやんちゃで調子に乗ると手が付けられなかったが、一方でとても人なつっこい面をもっていた。時々犬のくせに猫のように呼んでも無視したり、そのくせ機嫌が良いと人の耳など舐めに来たりして自分というものをもっていたようだ。

そのボビーが調子を崩したのは死ぬ一週間前だ。夜中に悲痛な鳴声に驚き、ボビーの犬舎に行くと前足を投げ出し這いつくばっていた。その時は、身体の自由がきかないようだったが、じきに回復してその夜は何事もなかった。しかし次の日から、しばしば発作が起きるので病院へ連れて行ったが、結局病因は判らずじまいだった。その後も食事を摂らなかったので点滴をしてもらったが、私はその時点でまさか二日後に死ぬとは思っていなかった。

夜中2時前、例の悲痛な鳴声にうつらうつらしていた私は、いつもより長く鳴くボビーに近所のてまえもあり、急いで彼の許に行くと安心したのか鳴き止むが、じきに失禁したのだ。このとき私は初めて事の重大さを理解した。その後ボビーは息を断続的に吐き、私は彼の頭を撫ぜながら死に逝く姿を見つめるほかになかった。諦めと悲しみのなかにいる私に、なんとボビーは混濁する意識のなかで、小さく尻尾を振って別れの挨拶をしたのだ。夜空を見上げると、北斗七星が瞬き低く雲が流れ、静寂があたりを支配していた。私は生あるものが最期の時の厳粛で聖なる時間のなかにいた。そうしてボビーは旅立った。長い間、ありがとうボビー!!

                                              合掌

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コメント

ボビー君、
亡くなったのですね…。
さびしいです。

投稿: m | 2009年5月20日 (水) 12時19分

 先生宅での新年会の時のボビーの元気な姿が思い出されます。
 僕の家の犬も今年に入ってすぐに死んでしまいました。仕事から帰る僕を14年間うるさいほどに吠えて出迎えてくれましたが、今はもう静まり返っています。死んでしまってしばらくたっても、まだいると思ってしまい、夕方になるとつい散歩に行かなければと思ってしまったり、何もない犬小屋を覗いたりしてしまいました。
 癌でした。日に日に弱っていく姿を見るのが耐えられませんでした。
 その後すぐに小さいころからよくしてくれたおじさんがなくなりました。ついこの間まで毎日のように遊びに来て、元気に大声で話していました。自殺でした。
 どちらのときも眠っているようでしたが、触れると冷たくて、もう動かないんだと思うと生きているということはどういうことかと感じました。骨になってようやく死んでしまったんだと実感して悲しくなりました。
 どんなに願っても、もう犬を抱くこともおじさんと話すこともできません。犬のお骨はしばらく家に置いておきましたが、当たり前ですが静けさは変わりません。そういった意味では天国があるにしても無いにしても死んでしまったら終わりだと感じました。
 ニュースで戦争で何万人犠牲になったとか、新聞で毎年何十万匹の犬が保健所で処分されているとか、映画でライン作業のように牛や豚や鶏が食肉にされているとか知って、かわいそうだかわいそうだと思いながらも、どこかひとごとだったと感じました。
 人間だからとか動物だからとかの区別でなくその人にとって本当に大切なものだから悲しいのでしょうか?
 これか先も大切な人の死に悲しむことがいくつかあると思います。そして普段は忘れていますが自分も死ぬ時がきます。
 先生、生きるということはどういうことなんでしょうか?

投稿: 元生徒 | 2009年5月26日 (火) 13時00分

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