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2009年5月 8日 (金)

石田徹也展ー悲しみの「現実」

先日、石田徹也展を観てきた(浜松市美術館4・8~5・17)彼は焼津市生まれ(1973)武蔵野美術大学デザイン学科で学び、31歳の若さで鉄道事故で亡くなった。ほぼ13年間の画業だった。

会場に入ったとたん館内にまったく生気が感じられず、”死”の匂いすらただよって異様な感じをうけた。初期の作品は大学でデザイン科を選択しただけあって、イラスト的、説明的ではあるが、すでに独特の世界観が表れている。それは、物と一体化する人(自分の分身)である。階段、マンション、飛行機、果ては便器、側溝、タイヤ等々である。多くは箱型で自閉的、逃避的な印象をあたえる。その後、サラリーマンの悲哀感と現代社会の批評性を強め、人物の憂いをもった眼差しが観る者の心に痛い。この頃の彼の制作ノートには「自分を突き放して、笑ってしまうユーモアが必要だ」と言うようなことが書いてある。しかしそれは必ずしも成功しているとはいえず、益々自己への内面へのこだわりをみせている。

1997年頃から格段に絵は緻密になり、表現に深み、凄みを感じる。そして序々にパロディ的なものからシュールな自己内面的表現に移行していく。絵は次第にエロスとタナトスが交差する神経症的な様相を帯びてくる。時には別れた彼女?との想いに沈む叙情的な作品もあるが、自虐的、退行的な絵が多くみられる。

自分も絵描きとして思うのは、こうした方向は「ヤバイ!」のだ。多分、すでに石田は絵画と現実が倒錯し、絵の世界が現実にとって代わっているのだろう。しかも閉塞された世界に抜け道はなく、自己崩壊するまで自分を追い詰めていく。床に半裸体を投げ出し、肉体の中を洪水のように流れていく顔や様々な物を描いた2004年の作品は、それを如実に表している。そして絶筆になった絵は、机上に何も描かれていない画用紙、空っぽの絵の具の前でボー然としている自分らしき人。しかし血管の浮き出た異常に太い腕は、別の生き物のように描こうとする意志だけが空回りする。ここに到って石田徹也に先はない。

ときどき思うのだが、人の運命はすでに”天”によって決められているかのようだ。そのように生まれ、そのように死んでいく・・・それが顕著に表れたのが、ゴッホであり、ジャニスであり、ジム・モリソンなどの天才たちで、石田もやはり一人の天才だったのだろう。

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コメント

チケットありがとうございました。

作品から滲み出るオーラが凄かったです。
表現とか、自己と社会とか、いろんな事を考えさせられる展覧会でした。

この展覧会を見たことが、何か今後の身の肥やしとなりそうな気がします。

投稿: kamapiii | 2009年5月 9日 (土) 01時45分

先日学校で図録を観ました。実物を観に行きたいと思います。まだ間に合うかな?
先生のコメントもなるほどと思います。

投稿: じゅんけい | 2009年5月13日 (水) 18時25分

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