「幸せカモン」鈴木砂羽、参上!
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八ッ場あしたの会というところに、先のブログ「八ッ場ダム途中工事を観光資源に」をメールで送ったら下記の返事が来ました。
メールをいただき、ありがとうございます。
ダム本体はまだ建設されていませんが、付け替えの道路や橋脚などの
工事は、確かに非常に大規模で、背景の自然とのミスマッチが
耳目を集めています。
私どもでも、今までこうした現場を案内して来ました。
八ッ場には国の名勝・吾妻渓谷があり、自然湧出の名湯もあります。
すばらしい景観がまだ他にも残されており、縄文遺跡、石仏群などの
文化遺産も非常に豊富です。
地元の方々がその気になれば、いくらでも再生の可能性はありますが、
長年、ダム計画と共に歩んできた地元の意識が変わるには、まだ少し
時間を要するようです。
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八ッ場あしたの会より
というわけでこの問題、自民党系の知事らが騒いでいるが、政府のでかたをいましばらく注視していましょう。
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民主党、鳩山政権下次々と改革をやってくれています。自民党政権時代の無駄使いが明かになって、すでに3兆円に迫っています。いかに長期政権は腐敗をもたらすか、これでよくわかります。まだまだ天下りなど抜け道だらけなので法的規制が急がれますね。
ところで、巨大利権の温床のひとつダム問題があるが、もうダムなど作る必要はないと思います。例えば今問題になっている八ッ場ダム、何千億もかけて途中で止めるのは(すでに3分の2を費やしている)それこそ無駄使いではないかという意見もあるが、たとえ無駄になってもかまわないと思うのは、自民党政権下、自然破壊そして自然に抱かれた人々の心の蹂躙をつずけてきた戦後の利権にまみれた構造そのものをストップすべきなのです。
ここで一つ提案があるのです。八ッ場ダム建設のため生活の場を失った村人に、観光資源として建設途中のダムを観光客に見せるというのはどうでしょうか。面白いと思いますよ。我々の税金がいかに無駄に使われたのかひと目で実感できるでしょう。すざましい自然破壊も分るでしょう。学校の遠足に連れてきても勉強になります。一泊二日でガイドが八ッ場ダム建設中止になった経緯など解説するのもいいでしょう。どうでしょうか?
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今年の春先の頃、いきなりなんの相談もなく、我が家の裏の大きな木が役所から遣わされた業者によって切り倒されてしまった。お蔭でこの夏、ベランダは木陰を失いカンカン照りになり、読書をしたり、お茶を飲んだりするスペースがなくなってしまった。役所に問いただすと、河川敷にある木だから取り除いた、というわけの判らぬ答えが返ってきた。どこからどこまでが河川敷というのだろう。小さな川の畔に昔からある一本の木がなんの害があると判断したのか?私には理解できない。それどころか秋には赤い実をたわわに付け、白鷺をはじめ鳥たちが餌を求めてやってくる。風をよけ、日差しをよけ、川沿いを散歩する人の憩いのシンボルでもあった。血の通わない行政とはこうゆう事だろう。
一本の木が大きく育つには何年もかかる。それを役人が作ったマニュアルに従ってなんの考慮もなく切り倒してしまう。樹木は生き物でありそのことにより、鳥や虫や人も生かされている。この当たり前のことが解らなくなってしまったのだろうか?
立体花博が始まったようだが、樹木をオモチャにして楽しんでいる感性を疑う。”うなぎ犬”のかたちを保つために、こまめに刈り込まねばならないという不自然さ!本当に自然を愛そうというなら、丸坊主になった山に花博にある樹木を植えなおしたらいい。または街中を緑化し、散策できる公園でも作ったほうがましである。まったく本来日本人がもっていた優れた自然観はどこへ行ってしまったのだろう。
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今春から「アート・ルネッサンス実行委員会」に参画し活動してきました。この活動は浜松市の浜松城公園及び中央市街地に彫刻や絵画、オブジェ、インスタレーション、工芸品などの美術作品を展示し、市民にもっとアートを身近なものとして感じてもらおうとの主旨で立ち上げた非営利組織です。その成果が来月10月10日から一週間、浜松城公園内で10名ほどの作家によるインスタレーション。街中はゆりの木通りを中心に二十数箇所、絵画、工芸などをお店のウインドウ、店内に展示する予定です。
オープニングには、浜松城公園石舞台にて現代舞踏、ギターによるJAZZ演奏会も企画しています。その他に子供たちを対象にワークショップも予定されています。また、地域文化の底上げということで新聞社や企業、商店、銀行などに協力をお願いしています。
私の仕事は主に静岡県西郡いる作家に参加を呼びかけることで、今回呼びかけたほとんどの作家が快く引き受けてくれありがたく思っています。尚、まだまだ作家を募集していますので、自分も参加したいと思う方は、私(メールにて)か市美術館(アートルネッサンス係り)に連絡ください。また、実行委員会の活動に興味のある方もオーケーです。
浜松市としては民間組織によるアートフェスティバルは初めてなので、たいした事はできないと思うけれど、持続的に活動を展開し、回を重ねるほどに充実したものにしていきたいと考えています。
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さて選挙も大詰めを迎えているが、民主が圧倒的に有利なようだ。当然だろう。年金、医療はガタガタだし、小泉政権によって、行き過ぎた市場主義の弊害で経済の格差をうみ、国民はアップアップになっている。しかも、選挙を引き伸ばし国民の審を問わず総理を短期間で三人も変えたのだから、これで怒らない国民はよほど自民にいい思いをさせてもらっている人間だろう。
とはいえ、国民は民主を信頼しているとは思えない。自民にお灸をすえようと考えているのが大方だろう。さてその民主が政権をとったとしても、一枚岩でない混合所帯ゆえに、とくに防衛、外交ではミギとヒダリに別れているから内部統一ができるのだろうか?おまけに、この選挙で小沢一郎の肝いり若手議員が多数当選するだろうから、鳩山が総理になったとしても結局は小沢の傀儡でしかなくなるだろう。その事にに反発する議員もでて、民主はバラバラになりかねない。
一方、自民は下野し野党になれば、美味しい蜜はなくなったことで節操のない連中は自民を離れ民主に擦り寄っていくだろう。となれば、さらに政界は流動化し、再編の動きがでてくるだろう。そこら辺を見て、先の定額給付金問題で自民を離党した渡辺喜美(元行革担当相)は、みんなの党(いかにも安易な命名)を立ち上げてキイマンになろうとしている。
かくして我日本は、二大政党が本当に定着するのはいつの日だろうかと思う。
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来月あたり浜名湖で、立体花博モザイカルチャー展が開催されるらしいが、このモザイカルチャーなるもの、私には大変グロテスクなものに見える。ワイヤーメシュを使って鳥や動物、または建物などをデザインしそこへ土をいれ様々な植物を植え込むものらしい(樹木を単に刈り込むものとは異なる)
18世紀頃ヨーロッパの庭園で始められたそうだが、自然をどうとらえるかを考えれば、いかにも人間中心主義の西洋人が考えそうなものである。翻って日本をみたとき、盆栽というものがあるが、同じように植物に手をいれるにしても、あくまでその樹木の特性と美しさを大事にし、ミニマムなのにマクロな宇宙観を創造しょうとした。対しモザイカルチャーは、人間のデザイン的意志を優先し都合の良い形に植物をはめ込む。それが子供受けをねらったパンダだったり、観光事業に結びつけ、植物を石やレンガのように物扱いして自然を愛するがごとく振舞われては目も当てれない。
本来、自然と共生してきた日本人の感性とまったく相容れないモザイカルチャーを、グロテスクと感じるられないほどに感性が西洋化されてしまったのだろうか?それとも博覧会という時代遅れのおバカなお祭りがそうさせたのだろうか?いずれにしろ、歪んだ自然観のしろものであり、それを芸術などと呼ぶのはおこまがしいかぎりだ。
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毎年八月になると原爆投下、そして終戦記念日があるので否が応でも先の戦争の事、戦後の政治のことを考えてしまう。それに今年は日本の転換点を迎えるであろう国政選挙がある。昨日もTVで放映されていた映画「硫黄島からの手紙」を観た。外国人が撮った映画とは思えないほど上出来の映画だ。さすが名匠クリンストウッド!しかし<アメリカ>に接した上官はヒューマンな軍人で、他の上官は教条的天皇崇拝主義という図式に見えてしまうのは、やはりアメリカ人の監督が作った映画だろうか。それにしても国家と個人の戦争に対する引き裂かれた思いが良く描かれていた。戦争になれば、当然互いに自国のために命をかけて戦うだろうが、一方家族のため自分のためにも命は欲しいだろう。そんな矛盾を強いる戦争はあってはならないが、現実には今も世界のいくつかの国は戦争状態である。
ひるがえってここ日本は、60年ものあまり自国の兵士?他国の兵士を殺さずにいる<平和>がつずいている珍しい国だ。これを憲法9条のおかげだと単純には思わないけれど、やはり歯止めにはなっているだろう。アメリカの傘の下で非核3原則はすっきりしないし、毎年3兆円も使っている軍事大国なのに軍隊ではなく自衛隊などと呼び、法律を無理やり解釈してアメリカさんに同調しているのも滑稽な気がする。だからといって小林よしのり一派や田母神氏のように右巻きにはなれない。彼らの言っていることは正しいところもあるが、今ある脅威のみ(北朝鮮など)の現実主義であり、歴史観においては引っくり返った被害者史観にみえるのだ。戦争というものをどう考えるのか?軍事技術論だけではなく、政治・文化的に人類はかくあるべきだという視点が決定的に欠如しているように思うのだ。先の戦争を敗戦と呼ばず終戦という言葉の意味は重い。どう解釈すべきか?とにかく二度と戦争はしてはならないという覚悟は必要だ。
結局、戦後、責任の所在を曖昧にし、戦後処理をなし崩しにして今日に到った付が混乱を招いているのだろう。過去は水に流したがる日本人の習性が悪く出てしまったのかな。
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先日、セブンイレブンのコンビニ弁当の賞味期限(消費期限ではない)切れの値引き問題を記憶していますか。スーパーなどではたいがいは値引きしているのに、本社の圧力で値引きさせず、売れ残りは廃棄せせる。これは不当ではないか、という問題です。結局、各コンビニ社に法的にはなにもできず、注意しただけ終わったようだが・・・
例えばセブンイレブンは、全国に12000店あり、各コンビニで弁当の廃棄が一日約30個だそうです。1つ500円として一日で15000円×12000店舗で1億8000万円!さらに年間でみると657億円の弁当が廃棄されている勘定になる!!各社コンビニをあわせたら途方もない数字になるだろう。しかも、廃棄が多いほど本社が儲かる仕組みになっているとはなんたる悪徳商法!
世界では10億人の餓えた人たちがいるというのに無駄使い、もったいないを通り越している。これが飽食日本の現実である。世間はエコ、エコと声高に叫ぶが、欺瞞だらけのエコ社会である。政府が進めるエコポイントや地デジにしても、ようするに古い電化製品を大量に廃棄させるエコの名を借りた場当りてき経済政策である。民主党の高速道路無料化はガソリンを消費させ、CO2を排出させるバラマキ反エコ政策ではないか。
どだい資本主義社会のもとになっている大量生産大量廃棄の考え方を是正しなくては、エコの名を借りた、金儲けに使われる欺瞞エコしか蔓延らないだろう。
追記・・・昨日(8・5)セブンイレブンホールディング社は弁当等の賞味期限1時間前から値引きを認めたようだ。
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「img019.pdf」をダウンロード先日、下北沢で娘の演劇公演を観てきた。そのおり鈴木卓爾と二十数年ぶりに再会した。その前日に、私のPCメールに卓爾から突然メールが届いた。そこには、私から別れたあとどのように生きていたのか、また現在どんなことをしているか、簡潔だが熱いメッセージが書かれていた。笑ってしまうのは「先生が会いたくないと言っても、是非会いたいです」と書かれていて卓爾らしいな、と思った。別に喧嘩別れをしたわけでもないので、久しぶりだし当然私も会いたいということで再会した。
彼と初めて会ったのは彼が高校生の頃だ。短編アニメを作ったので観て欲しいということで観たのだが、その完成度の高さにビックリしたのを覚えている。感受性豊かで、才能のある奴だとそのとき思った。そして今、初の長編劇場映画「私は猫ストーカー」をひっさげて監督デビューしたわけだ。
彼のことは友人をかえしてそれとなく聞いていたし、TVCMなどでも見かけていたので(役者もやっている)二十年以上もブランクがあると実感できなかった。しかし、自分が面倒をみた?男が夢をはたした姿をみて嬉しくはないはずがない。再会というのは、過去は過去として大切だが、これからまた新たなる関係が始まるであろう未来志向のものである。卓爾君の監督としての活躍が楽しみだ。
ちなみに映画タイトルは「私は猫ストーカー」 主演は星野真理 浜松はシネマeーラで9月中旬16日頃上映予定 監督が舞台挨拶にきますよ。
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静岡県知事に川勝平太氏(民主・社民・国民新薦)が当選した。保守王国の静岡県に初の革新系の知事がうまれたわけだが、ここは素直に賛同したい。静岡空港立ち木問題で引責した前知事石川氏の県政の流れを変えたいとの民意の表れだろう。
このところ民主は主な地方選で四連勝であるが、民主の看板だけだはなく、やはり国民は変革を求めている結果だろう。もう政治屋のプロには任せられない状況になっている現在を、どうにかしてほしいと感じている、そのことが政治の素人川勝氏を当選に導いたのだろう。
川勝氏とは一、二度お会いし話をしたことがあるが、経歴からみるエリート臭さはなく、気さくでエネルギッシュな印象だった。静岡県をこの国の理想郷にしたいと語っていたが、是非その気持ちを忘れずにこれからの県政にあたってもらいたい。
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十八日衆院で臓器移植法改正A案が通過した。家族の同意で十五歳未満でも提供可能ということだが、私が引っかかるのは「脳死は人の死」を前提にしていることだ。
つまりまだ身体が温かく、心臓は動き、髪や爪は伸び、汗までかく。それで“死”といえるのだろうか?このことは、これまでの日本人の生死観に対する概念を大きく変えることになる。なぜそのような流れになったのかは、医療の発達により臓器移植が可能になり、不治の病から解放されるからである。(それがたとえ数年であっても)
確かに多くの患者がそれを待ち望んでいる。明かに臓器提供は足らないのだから(しかも心臓停止からでは間に合わない臓器もある)法律が変われば臓器提供は増えるだろう。現行では莫大な金を(1億とも4億ともいえる)払って海外まで手術を受けなくてもよくなるだろう。
しかしドナーや家族の立場になったとき、「脳死は人の死」を受け入れることができるのだろうか?
私はこの法案に大変違和感を覚える。というよりあえて誤解を恐れずにいえば、他人の臓器を移植すること、そのこと事態に違和感を覚えるのだ。確かに人の命は重く大切だ。しかし、臓器のやりとりに不快感を感じてしまうのは何故だろうか?
それは生きることが”善”であり死は忌むべきものというとらえかたである。死に逝くこともまた大切な”生”の一部である。物事を合理的に考えれば、利用するものは利用してそれが、人の命を助けるならこんな良いことはない。だから彼方もドナーになりなさい。この考え方は合理主義的キリスト教のように思う。日本の仏教的精神的風土には馴染めないのではないか。
一見生命を尊重しているようだが、私にはフランケンシュタインの悲劇しか思い浮かばない。科学万能主義の危うさを感じてしまうのだ。生と死は一対である。別けて考えるべきではない。どこから生でどこから死なのかそれを医療の立場からのみ決定すべきではないし、ましては臓器は物であって物ではない、売買するようなものではないのである。世界の貧しい国の子供たちの裏の臓器売買も危ぶまれる。
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コメント、ありがとう。犬が死んで散歩の時間の空白は心が哀しいですよね。
ところで人が「生きること」への質問ですが、とても本質的なことで古今東西の哲学、宗教において偉い先生方がおしゃっているので、私がとやかく言えるものではないのですが、今まで生きてきて言えるのは、人は必ずいずれ死を迎える、それまでどう生きるか?です。
生きるとは”死”に抵抗すること。つまり、何もしなかったら(例えば飲食をしない)簡単に死んでしまいます。また、自分の意志とは関係なくいつの間にか<私>は、この世に存在しています。なんだか不思議です。そのうえ死は”恐怖”でもあるから抵抗して生きるしかないのですね。
でも同じ生きるなら、充実した「生」を生きたいですよね。でも何をもって充実なのでしょう?私は、今生きている「自分を受け入れること」そして「この世を受け入れること」だと思いました。昔の人が言った「諦観」ということでしょうか・・・少し乱暴な言い方になってしまいましたが、そんなふうに考えています。
そのうえ、より積極的に生きるなら「日々是好日」でしょうか。この言葉に関してはHPのアンチエイジングPART11を読んでください。最近アップしました。
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先日、石田徹也展を観てきた(浜松市美術館4・8~5・17)彼は焼津市生まれ(1973)武蔵野美術大学デザイン学科で学び、31歳の若さで鉄道事故で亡くなった。ほぼ13年間の画業だった。
会場に入ったとたん館内にまったく生気が感じられず、”死”の匂いすらただよって異様な感じをうけた。初期の作品は大学でデザイン科を選択しただけあって、イラスト的、説明的ではあるが、すでに独特の世界観が表れている。それは、物と一体化する人(自分の分身)である。階段、マンション、飛行機、果ては便器、側溝、タイヤ等々である。多くは箱型で自閉的、逃避的な印象をあたえる。その後、サラリーマンの悲哀感と現代社会の批評性を強め、人物の憂いをもった眼差しが観る者の心に痛い。この頃の彼の制作ノートには「自分を突き放して、笑ってしまうユーモアが必要だ」と言うようなことが書いてある。しかしそれは必ずしも成功しているとはいえず、益々自己への内面へのこだわりをみせている。
1997年頃から格段に絵は緻密になり、表現に深み、凄みを感じる。そして序々にパロディ的なものからシュールな自己内面的表現に移行していく。絵は次第にエロスとタナトスが交差する神経症的な様相を帯びてくる。時には別れた彼女?との想いに沈む叙情的な作品もあるが、自虐的、退行的な絵が多くみられる。
自分も絵描きとして思うのは、こうした方向は「ヤバイ!」のだ。多分、すでに石田は絵画と現実が倒錯し、絵の世界が現実にとって代わっているのだろう。しかも閉塞された世界に抜け道はなく、自己崩壊するまで自分を追い詰めていく。床に半裸体を投げ出し、肉体の中を洪水のように流れていく顔や様々な物を描いた2004年の作品は、それを如実に表している。そして絶筆になった絵は、机上に何も描かれていない画用紙、空っぽの絵の具の前でボー然としている自分らしき人。しかし血管の浮き出た異常に太い腕は、別の生き物のように描こうとする意志だけが空回りする。ここに到って石田徹也に先はない。
ときどき思うのだが、人の運命はすでに”天”によって決められているかのようだ。そのように生まれ、そのように死んでいく・・・それが顕著に表れたのが、ゴッホであり、ジャニスであり、ジム・モリソンなどの天才たちで、石田もやはり一人の天才だったのだろう。
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14年間飼っていた犬(ボビー)が4月27日午前2時に亡くなった。ボビーはハスキー犬とラブラドール犬のミックスだ。体形はハスキー犬で、ベージュとホワイトの長毛にハスキー犬の特徴である黒の隈取の大変ハンサムな犬だった。性格はやんちゃで調子に乗ると手が付けられなかったが、一方でとても人なつっこい面をもっていた。時々犬のくせに猫のように呼んでも無視したり、そのくせ機嫌が良いと人の耳など舐めに来たりして自分というものをもっていたようだ。
そのボビーが調子を崩したのは死ぬ一週間前だ。夜中に悲痛な鳴声に驚き、ボビーの犬舎に行くと前足を投げ出し這いつくばっていた。その時は、身体の自由がきかないようだったが、じきに回復してその夜は何事もなかった。しかし次の日から、しばしば発作が起きるので病院へ連れて行ったが、結局病因は判らずじまいだった。その後も食事を摂らなかったので点滴をしてもらったが、私はその時点でまさか二日後に死ぬとは思っていなかった。
夜中2時前、例の悲痛な鳴声にうつらうつらしていた私は、いつもより長く鳴くボビーに近所のてまえもあり、急いで彼の許に行くと安心したのか鳴き止むが、じきに失禁したのだ。このとき私は初めて事の重大さを理解した。その後ボビーは息を断続的に吐き、私は彼の頭を撫ぜながら死に逝く姿を見つめるほかになかった。諦めと悲しみのなかにいる私に、なんとボビーは混濁する意識のなかで、小さく尻尾を振って別れの挨拶をしたのだ。夜空を見上げると、北斗七星が瞬き低く雲が流れ、静寂があたりを支配していた。私は生あるものが最期の時の厳粛で聖なる時間のなかにいた。そうしてボビーは旅立った。長い間、ありがとうボビー!!
合掌
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西松建設からの政治献金規正法違反で小沢党首の秘書が起訴され、かなりダメージをくった民主党だが、自民党も二階経済産業相も西松建設から似たような違反献金を受けていたようだ。つまり民主も自民党も「政治と金」については同じ穴のムジナなのだ。
「政治と金」といえば小沢も二階もあの田中角栄の流れをくむ息子たちのようなもので、その手法は、巧妙に法律の網をくぐって金を集めるやり方だ。ただクリーンなイメージを売り物にする民主党の方がダメージは大きい。それは世論調査でも、小沢の党首続投を支持しない63.3%とでて明らかである。
もつとも小沢は党首などに固執していないし、総理になりたいとも思っていないと私は以前から思っている。彼は変革を好む人間で自民党を出てからも新進党を作ったり、自由党を結成したり、壊しては作り壊しては作りしてきた男だ。だから世論に反してあえて党首に留まったのは、あくまでも自分の手で政権交代をしたかったためである。しかしここに到って本当にマイナスになると解ればいつでも党首を辞めるだろう。まあ、今しばらくは一郎・太郎のチキンレースになるだろう。
いずれにせよ選挙は今年中に、早ければ四月中にあるのだから政権交代はあるのか見ものである。私としては交代して欲しいと思っている。官僚にいい様にされている自民党政治はウンザリだからね。
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普段、野球を観ない私だが、時間帯があったのでつい観てしまった。決勝の韓国との攻防戦は、息詰まるもので久しぶりに野球のおもしろさを堪能させてもらった。結局日本が延長戦のすえ勝利したのだが、どちらが勝ってもおかしくない戦いぶりだった。
最後に日本へ勝利を呼び込んだのは、今回不調だったイチローの一振りだった。どうもこの男はスターとしての特別な何かをもっているようだ。それは嘗ての長嶋茂雄に通じるものだ。
しかしそれにしてもあの時、韓国は何故イチローと勝負したのだろうかと疑問に思っていたが、今日の朝刊(中日新聞)を読んで合点がいった。それによるとベンチサイドでは、きわどいボールを投げ結果四球でもよいというサインを出していたが、捕手にうまく伝わらなかったらしい。つまり結果としてサインミスであり、それが大きく勝敗を分けてしまったらしい。
こうした僅差の攻防戦は1つのミスが命取になってしまう。そうした事を含めて勝負は時の運と言えるのではないだろうか。
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昔は、サプリメントに対し懐疑的だったのに、今では気がつくとOPCサプライズ、金時生姜ともろみ酢、ペポ南瓜のシードオイル、メラトニンとビフィーナ。昨夜注文したのが、トリビュラス・テレストリスなんて舌を噛みそうなマニアックなサプリ、などなど卓上に並んでいる。
サプリに対する考え方が変わってしまったのに間違いはない。ようするに、以前はこれだけ世の中に食品が溢れているのだからサプリなど必要はない。などと思っていたが、体力が落ちてくると、年齢的に体内では十分に生産できない栄養素があることに気ずかされたり、また食品ではなかなか摂りにくい栄養素もあるようだ。今ひとつは、薬で治すのではなく、サプリによって治すほうが、身体に副作用がなく負担がないのではないのかという考え方である。
まあ、そんな感じでいろいろ試みているのだが、自分の身体にあったものやバランスをとるためにもサプリは必要だろう。くれぐれも巧妙なコマーシャルに誤魔化されたり、流行に流されたりしないようにしなくてはならない。とは言うものの、これは失敗だったな、と思うサプリも数々あるのも事実だ。何事もある程度のリスクを払わないと望むものは手に入らないのだろうな。
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映画「おくりびと」がアカデミー外国語映画賞を受賞した。私は08・10・1のブログでこの映画のことを書いたので詳細は省略するが、西洋人にも理解されたことを素直に歓びたい。
このところの政治状況は最悪だね。つまるところ民意を反映できない政府、政治家が自国ではなく自分の事しか考えてということか。そのなかで笑っちゃうのは中川昭一前財務大臣のモウロウ会見だ。私はああいうの嫌いではない。いっそその場で涎など垂らしながら眠ってしまえばおもしろかった。彼の親父さんも有能な政治家だったが酒で失敗したから、これは血筋かな。
先日、静岡文化芸術大学の卒展を、講師であるジュンケイ君の案内で観てきたが、予想よりはるかに面白かった。プロダクトデザインあり、工芸あり、建築、映像、ファインアートありでバライティに富んでいた。森本恵里亜さんの照明オブジェなど欲しくなってしまった。川口匠君の触るインスタレーションは、温かく優しい感じでずっと触っていたくなった。鈴木絢さんのパワフルなドローイングは描くことの楽しさを教えてくれているようだし、水田武児君の刃物で作った翼の彫刻はナルシスティクなかっこよさがあった。他にも優れたものがあり、つまらない大人の権威的コンクールよりはるかに自由で伸びやかだった。ただ少し残念なのは、それらの作品の制作をサポートする制度が大学側に欠けているのではないかと感じたことだ。つまり生徒の自由な創造的キャパに大学側がついていってないということだ。まだできたばかりの大学でしかたがないのかな。
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結局、断食は1日のみだったが前後の日にちを合わせると平常にもどるまで10日ぐらいになったかな。断食後は始めはスープからゆっくりと戻していくのだが、ある程度固形物を摂るようになるとやたらと食べたくなり、これがよくいわれるリバウンドの引き金になってしまう。(戻す過程で少々食べすぎて気持ち悪くなったことがあった)
動物性(肉、魚)タンパク質を摂りはじめたのは10日以上過ぎてからになった。現在はすっかりもとの食事形態(一日、昼、夕2食)にもどっている。断食や微食をしていると便秘になることがあり、私の場合腸洗浄をして残便を流してしまうのだが、その際宿便も出してしまい腸をきれいにしてしまう(おかげで肌つやが良くなったようだ) 体重は当初2キロ減ったが、今は1キロ減に止めている。せっかく腹のまわりの脂肪が少なくなったのだからこれをキープしたいと思う。(ウエストサイズは2~3センチ減)
このせいか寝つきも良くなり、たいして寒さも気にならなくなった。ちょっと面白いのは、私はあまり人参が好きではなかったが、何故か美味しく感じられるのだ。身体が求めている食べ物を素直に感じられるようになったのだろうか。そんなわけで、ここ10年ぐらい風邪ひとつひかない良好な体調をキープしているわけだが、くれぐれも断食は危険と隣あわせのなので軽い気持ちでやらないほうがいい。もしやってみたいのなら相談にのりますよ。
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先日、チラッとTVで観ただけだが、元振込め詐欺師がレポーターの質問に答えていた。レポーターが「そんなことをして心が痛まないのか」と言う問いに、彼はこんなことを言っていた「自分の内に”正義”があればぜんぜん痛まない」と。私は一瞬驚いた、いったい振り込め詐欺師にどんな正義があるというのだろう?と、その時は仕事のためTVの前から去ったが、どうも気になった。年寄りから金を奪っても、先は短いしどうせあの世には持って行けないから、自分がもっと有効に使ってやろうとでも思っているのだろうか? なんだかドフトエフスキーの「罪と罰」のラスコールニコフようなことになったが、どのみち自分勝手な「正義」、大義名分で自身の心を欺いているわけだが、怖いのはそうすれば人殺しもできてしまうことだ。曰く、社会が悪いから儲けている奴から奪って何が悪い。といった居直りもそれに近い。
ちょっと考えてみれば、この世から戦争がなくならないのも、互いに「正義」を標榜しているからだ。アメリカは昔から正義のヒーローが好きで、今も「ジャスティス!」と叫び、それを迎え撃つイスラム諸国は「ジハード」と聖戦を訴える。互いに自分こそ正義であって、相手国は悪である。そこに必要なのは冷静公平な第三者」なのだが、この地球上にはそんな国はなさそうだ。何故ならすべての国は利害でがんじがらめなのだから(特に日本などアメリカのポチなのだから)宇宙人でも呼んでくるしかないだろう。
話が横滑り、荒唐無稽になってしまったが、「正義」をかかげるほど怪しいものはないと改めて思ったしだいだ。
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このところ、つずけて美術展に行って来た。ひとつは「第1回創造都市はままつ絵画公募展」これは以前に開催されていた天竜展をひきついたもので、天竜市が浜松市に合併された後に催された美術展だ。いまひとつは、県が主催する「富嶽ビエンナーレ展」だ。ともに全国公募展なのでレベルは高い。はままつ美術展はテーマがあり(環境との共生)そのぶん作品にまとまりがあり見やすかった。審査員の好みか、比較的抽象的傾向の絵が多かった。残念なのは会場が二つに別れ、第一会場は秋野不美術館の市民ギャラリーで、狭く大作には向かないスペースなので大変見にくい展示であった。おまけに入り口近くの壁面に今回の大賞作品が展示され、作品のクオリティーが伝わりにくかった。誰がこんな展示の仕方を考えたのだろうかセンスを疑う。作品は、ビエンナーレ展に比べややレベルは落ちるものの、個々には印象に残るものもあった。友人、知人の出品も多くビエンナーレ展にも作品が展示されていた。
一方、ビエンナーレ展は19回開催され、認知度も高いのでそれなりのレベルの作品が集められている。今年は立体に見るべきものがあったが、平面の作品も負けていなかった。高い技術力に支えられ、年季の入った作品はそれ故説得力をもっている。しかし何かが足りない。感動して思わず佇んでしまうものがない。たぶんその理由は、作家が完成度にこだわり過ぎ、実験性に乏しく、作家自身が制作にあたって感動していないようにみえる。また、個的なテーマに執着し過ぎて広がりに欠け、作品に瑞々しさがない。これは回を重ねたコンクール形式の美術展に共通するものかもしれない。
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昨日からプチ断食を開始した。一週間の予定だ。別に大した意味もないが、年末から正月にかけ胃腸に負担をかけたので休んでもらおうと思う。まあ七草粥西条版である。
断食といってもまったく固形物を摂らないのは一日、二日だ。後の日は超少食。例えば、一日にりんご1個にヨーグルト500gぐらいか。
今回の断食のテーマは”デトックス” 身体に溜まった老廃物、薬品(食品添加物等)などを排出し、リセットしたいと思っている。人間の身体は、食物を摂らないと消化に使っていたエネルギーは排出に向かうそうだ。
とは故、昨日の昼にスパゲティーを食べたきり固形物を摂っていないので空腹で、おまけにやたらと眠い。超少食に身体が慣れるまでキツイがそれも一日、二日。来週の今頃は私のラマダンは明け、やたらと食い物が美味しく(味覚が敏感になる)且つ、感謝の気持ちをもって食べれるだろう。
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先日、ブログじょうで飯島愛の死について書いたが、その後の週刊誌等の記事があまりにも酷すぎる。何故孤独な死に到ったものをさらに追い討ちをかけるようなことを書くのだろう。曰く、コンクリート殺人事件の犯人と同棲していたとか、暴力団員との交際とか、覚せい剤の常用者とか、はては遺体の腐乱状態(死後一週間後に発見された)を詳細に知らせたりと。彼女がなにをしたというのだろう。確かに彼女は元不良でAV嬢だった。しかし彼女はその過去を見つめ自分と戦ってきたのだ。それなのに人気のあるときはチヤホヤし、芸能界から去り、謎めいた死にいたって手を返したようにこの有様だ。
そこには悪意がある。つまり、どこの馬の骨かしらないがAV嬢だった女が、タレントとして成功したが、やっぱり汚れた女だったのだ。これが世間が一番納得するストーリーというわけだ。間違っても文化人や政治家なったり、起業で成功してもらっては困るのだ。
そうした小市民の代弁者がマスコミである。顔の見えない「世間」に隠れ、常識的な枠から外れたものを時に嫉妬し、時に嘲笑し、それ見たことかと罵倒する。それが善人面した小市民のやることだ。飯島愛を追い詰めて死に到らしたのは、そうした小市民の悪感情に一因がある。いずれ死因は解るだろうが、くれぐれも死んで逝った者をこれ以上愚弄してはならないと思うのだ。
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お笑いタレントの間寛平が昨年の大晦日、12月31日にマラソンとヨットで世界一周するアース・マラソンに出発した。陸上2万キロ、海上1万6000キロを2年以上の歳月かけて走破するつもりらしい。この冒険はまだ誰もがやったことのない、つまり成功すれば間寛平が初めての人となる。
彼はすでに59歳、還暦まじかでお世辞にも若いとはいえない。それなのに無謀ともいえる冒険に何故挑んだのか?確かに彼は並外れた健脚の持ち主だ。それも、もともと心臓に疾患がありそれを治療するためにはじめたジョギングがこうじて、マラソンの大会に出場するほどの心臓の持ち主になったわけだが、タレントとしてはそこそこ売れているメジャーなので、こんな無理をする必要はないわけだ。だが彼はそんな自分に満足できない。お笑いでは、後輩のさんまを抜くことは出来ないし、これ以上の人気も望んでいないだろう。そこで自分しか出来ないこと、それがアース・マラソンだった。体力のことを考えれば逆に今しかないだろう。
彼はもともと石原裕次郎に憧れ、映画俳優や歌手になりたかったときく、実際に上京しジャニーズの一員になりたかったのだが、当然のごとく挫折している。しかしその後お笑いタレントとして成功しているが、心の隅に忸怩たるものがあり、なにかカッコイイことで自分を世間に知らしめたいと思っていたのだろう。それが今回の前人未到のアース・マラソンの挑戦ということになったんだろう。私は同じような歳の彼の行為を素晴らしいと思う。男らしいと思う。(たとえそれが失敗しても命をかけているのだ)間寛平はお笑いタレントだが、間重美(本名)はずっと昔から二枚目だったのだろう。是非成功させて帰国し、二枚目ぶりを示しててほしいと思っている。
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明けましておめでとうございます。昨年は8月にHPと伴にshunsei-diaryを開始し、これまで多くの方々に目を通していただきまして、ありがとうございました。始めるまえはどんなことになるのやらと心配していましたが、どうやら自分なりに方向性のようなものが見えてきました。
元旦にあってこれといった新たな目標というものはないけれど、「事」についてもう少し掘り下げて考えてみたいと思っています。
電話もなく、来客もなく、静かな元旦です。窓から眺める木立の梢が風に揺れています。なにもせず時の流れを楽しむ。それも良いではないでしょうか。
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年末にショックな事件があった。それは元タレントの飯島愛の死だ。特別に彼女のファンというわけではないが、好感をもっていた。ストレートだが相手やまわりに気使う言動、明るくてどこか繊細な印象。TVでその活躍が心に残っていたので、突然の死に驚いたのは私だけではないだろう。腎盂炎という厄介な病気をかかえていたが、新たな事業(オリジナルコンドーム販売)に希望を燃やしていたとも聞く。その彼女が不可解とも思える死にかたをした。人気タレントであった光の部分と、都会のマンションの孤独な死という影。そしてまだ36歳の若さ。そうしたことがショックだったののだろうか。
彼女の経歴について詳しいことは知らないが、元AV嬢、表舞台に出てきたのはTバックの女王と言われたころだ。その後活躍の場を広げ、自身の告白本「プラトニック セックス」はかなりヒットしたようだ(私は読んでいないが)
思うに、彼女は自分の過去と向き合い、それを清算することをバネに生きてきたようだ。近頃は社会的活動(エイズ撲滅)にも意欲を燃やし始めていた。しかしどうしても清算しきれないものが彼女の心の内にあり、それが彼女を孤独にし、そのうえ病が追い討ちをかけ、自殺のような死を迎えてしまったのではないのだろうか?
人は誰も知らない心の闇を抱えている。時としてそれは本人すら気ずいていない場合がある。飯島愛は、孤独という自らの心の闇に落込んでしまったのだろうか?
ともあれご冥福をいのります。 合掌
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先日、現代美術展「風景ルルル」を観てきた。この展覧会は、若手8人によるもので平面、立体、映像などで構成されている。どのような基準で彼ら(彼女)が選出されたのかは知らないが、内面化された「風景」が展示されていた。
そこには既成の枠組みを軽やかに飛越えた自由な表現があり、現代美術の一端が示されていた。パンフレットにも書かれているように、作家たちの作品に共通するものは、どことなく軽く、ゆるく断片的だ。しかも閉じられているわけではないのに、個的で密やかな楽しみのようなものを感じた。一応に繊細で、肉体とか身体性に乏しい。したがって従来の絵画や彫塑における手触り感がない。
我々をとりまく世界は、確実にメディアによって虚構化されつつある。今後それはさらに加速化されるであろうが、そのことによって我々の現実は変容し、その対応を迫われる。いやすでに迫われている。しかしここにある作品は、そうした現実をそのまま受容し、<意味>の欠落または問わず、感覚のままに表現している様に見える。そこには変革に向かうラディカルなものはなく、漂うような自我が表出されていて、どこか見ていて頼りなさ、はがゆさが残る展覧会であった。しかしそれが我々をとりまく現在の「現実」かもしれない。
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昨夜、久米宏の「テレビというヤツは?!」(TBS)の番組に瀬戸内寂聴さんがゲスト出演されていて、面白いことをおしゃっていた。最近の若者はなぜ社会の不正に対し怒らないのだろう?と不思議がっていた。
なるほど、今ほど社会的不正がまかり通り、理不尽なことばかりなのに、若者が声を上げたなどと言うことをトンと聞いたことがない。70年前後の若者たちは、あれほど社会に抗議を繰り返していたのに・・・
他の国ではそのような事があると、真っ先に若者(特に学生)たちがシュプレヒコールをあげデモをしているにもかかわらず、日本では静かなものである。まるで国家によって去勢されたごとくである。高度に管理され連帯を失い、中途半端な豊かさのなかで個に埋没した若者たちは、何か言いたげなそぶりはあるものの、結局は自己保身にあまんじているように見える。若者のリビドーは社会変革に向かわず、無差別テロまがいの事件や陰湿な少女殺害というかたちで表現化されているのだろうか?
だとしたら日本の将来はかなりヤバイ。いつまでもニヒリズムに陥っている場合ではない。この閉塞的状況を少しでも変えていく、何かパワーのようなものが必要であると思うのだ。但し、極端な政治思想や狂信的な宗教は御免こうむりたい。
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こ
の作品は1968~69年にかけてメキシコで制作されたものだが、依頼者であるホテルの倒産により紛失していたものを、30余年後に渋谷井の頭線の構内にお目見えとなったわけだ。タテ5.5メートルヨコ30メートルの巨大壁画は原爆の炸裂する瞬間を描いたものだ。
中央には火を噴く骸骨、そのまわりには逃げ惑う大小の生き物など、どれも禍々しくもおぞましいものばかりだ。しかし受ける印象は迫力はあるがどこかコミカルで愛らしい。色もきれいでないし、絵も上手くない。だがそこには他の誰でもない岡本太郎がいる。
岡本太郎は大衆におもねらない大衆作家だ、日本の元祖ポップアーティストだと私は思う。ところで、この壁画を依頼した人物はどんな人だろう。商業主義にどっぷりつかった日本人には、このような巨大な原爆画を依頼するようなスケール感のある人物はいないだろうな。
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昨日、多摩美術大学の学友ということもあって、石内都写真展(目黒区美術館)を観て来た。以前にも「Mother`s」やベネチアビエンナーレ(イタリア)でも彼女の作品を観ているが、最初に発表した「絶唱、横須賀ストーリー」(1977)から「Scars(傷)」(1980後半)をへて、新作「ひろしま」(2008)まではじめて体系的に観させてもらった。
初期の横須賀の風景やアパート、建物を撮った写真は、70年代の時代の空気が感じられ、ざらついたモノトーンは中平卓馬などの影響があるのだろうか。しかし80年代に入り彼女は女性自身をテーマに撮りはじめオリジナリティーが立ち現れてくる。身体をモチーフに歪んだ爪や傷、ケロイドなど所謂美しいとは言えないものを真直ぐに見つめている。観賞者は被写体に否応なく対峙させられ、その意味するものを問いかけてくる・・・
2002年に発表された「Mother‘s」は、2000年に亡くなった彼女の母の下着等の遺品を撮ったものだ。この作品は大変重要に思われ、その後の方向性を示すエポックメーキングなものであると思う。それは傷ついた肉体の歴史、その肉体の喪失から物のもつ記憶へと向かっていく生と死のドラマである。正直、私にはこの作品はは重すぎて、彼女から送られて来た写真集は一度しか目を通していない。しかし私の網膜にはしっかり焼きついてしまっている。例えば、彼女の母が使用していた下着はまるで抜け殻になった人の皮膚のようであった。だが、それはオカルティックなものではなく、あくまでもクールでリリカルでさえある。
そして今年「ひろしま」を発表する。原爆の被災後、残された遺品の衣類等を撮ったものだ。個人的な関係の生死からパブリックな死生観へと作品は移りかわってきた。相変わらずリアルな眼差しは、統制された個的な情念から解放されて、空虚さの向こうに美しさがあった。それは死を通して生への慈しみのようにみえる。
石内は言う「人は傷をうけることでしか生きていけない」 男の傷は時として勲章のように語られるが、女性の傷は消せない記憶であり、歴史でもあるのだろうか。彼女の写真から聞こえてくる<声>はうめき、悲しみ、そしてノスタルジーからも徐々に解放され、「ひろしま」では、破壊されてなおある不在の美しさをたたえていた。とりもなおさず、それは現在の彼女自身の心のかたちであろうか。
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先日、元厚生事務次官殺傷事件で容疑者を短絡的と書いたが、34年前のペット殺害の仇討ちが動機だときいて納得できるものではない。大学に入って政治家が悪いと思ったら官僚がもっと悪いと思ったとも言っている。しかしなぜ厚生官僚なのか。
小泉容疑者の顔を新聞などで見たとき、その傲慢不遜の表情に不快感を感じるとともに、いいしれぬ不気味さを感じた。彼にとってはこの社会は唾棄すべきもので、自分のしたことは当然のこと、という居直りがみてとれる。確かに今の社会は歪み、不公平がまかり通っている。しかしだからといってテロまがいに直接関係のない人を殺傷していいはずがない。
今回の事件報道を見るにつけ、あらためて人の心の闇は深いと思った。
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セルフイメージとは、自分が自分自身にたいして抱いているイメージです。とても大切なことですが、かなり主観的で偏っていることが多いようです。いったい正しいセルフイメージとはなんでしょうか?
ジョハリーの窓というのを知っていますか?心理学の分野で、自分自身を4つに分けて考えたものです。すなわち、1を「開放の窓」と言い、他人に分かっている公開された自分です。2は「盲点の窓」で自分では気がつかないが、他人から見られている自分です。3は「秘密の窓」で他人には分からない隠している自分です。そして4は「未知の窓」で自分も他人も知らない自分です。このなかで4がなかなか面白いですね。潜在意識のなかにあり、したがって自分でも分からない、且つ他人にも公開していない自分。ある日、そんなのが突然表れたれたら怖いですよね。よく犯罪事件で「あんないい人が・・・」などは4つ目窓が開いてしまったのでしょうかね。
とにかくためになると思うから読んでみてください。
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元厚生事務次官連続殺傷事件がマスコミを賑わせている。テロとの疑いが濃いようだ。もしそうならば彼らを殺しても、年金問題がかたずくわけでもでもない。私的怨恨としても行為の短絡さはまぬがれない。短絡さといえばシビリアンコントロールにふれることが目に見えているにもかかわらず、政府見解を否定するような論文を発表した元幕僚長の田母神氏も同類だ(思想を貫き通すのはよいが、制服を脱いでからにしてもらいたい)
最近ひき逃げ事故で、被害者を引きずったまま逃走する事件がつずいた。これなどは冷静さをを失ったヒステリー状態である。ヒステリーといえば、最近始まったわけではなく、小泉前首相の「改革」音頭に乗せられたときに、すでに日本国民はヒステリー状態になっていたわけだ。その後、秋葉原無差別殺傷事件、個室ビデオ放火事件など冷静さを失った短絡的ヒステリー事件は枚挙にいとまが無い。
だいたいにおいて「政局より政策」などとカッコウつけた麻生首相だが、経済政策が選挙目当てのバラマキで、しかも地方自治への丸投げ。金が貰えると喜んでいる人も多かろうが、もともとは我々の納めた金だよ。これはつまり愚民短絡的政策といえる。ついでに、漢字もよく読めない「まん画脳」のおっさんは早々に辞めないと、今度は失言などして墓穴を掘るだろう。
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私が彼の存在を知ったのは、朝日ジャーナルの編集長時代だからもう三十年以上たっているのかな。当時朝日ジャーナルを小脇に抱えていることが、インテリの証であったような時代であった。彼の執筆した文を読み、正論でありながら硬さはなく、若者に心を開いている感じがして好感を持った記憶がある。その後、TBSニュース23のメーンキャスターになり馴染の深い人になった。同じキャスターの久米宏がニュースを身近なものにしたが、それゆえに軽すぎるところを後ろでピシッと決めてくれたように思う。
文化、芸術にも造詣が深く、しかも行動的で本当の意味でインテリジェントだったと思う。現在の日本はどうあるのか?どうあるべきなのか?そんな疑問をもったときにもっとも頼れる言葉を言ってくれる人だった。その人が逝ってしまったのがとても残念であるし、不安な心持である。例えば、前航空幕僚長の田母神氏の件など、どんなコメントを聞かせてくれたのだろうか。 尊敬する人生の先輩、筑紫哲也フォーエバーです。
合掌
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最近注目の超美人日本画家、松井冬子の絵を観てきた(浜松市平野美術館10・25~12・14)当日はサイン会もあってか大変賑っていた。館内はやや暗く、ガラス張りのケースのなかに彼女の絵があった。まず印象だが、私がまえもっていたグロテスクなイメージは、それほどではなかったということ。それは絵に迫力がないということではない。むしろ描かれているものは鬼気迫るものである。ただそれを支える高度なスキルと、知的で抑制のきいた描写力が単なるグロではなく絵に品格をあたえている。
それにしてもなぜ彼女はこのような絵を描くのだろう?「怒り、ゆがみ、閉塞感、牢獄、狂気、ヒステリー」といったものの断片を示していると作家は言うが、男の私から見ればおぞましいばかりである。
彼女にとってこの世界は忌むべきものであるようだ。倒錯した関係性は、アートというかたちによってのみ成り立っているからこそ、なみなみならぬ緊迫感をあたえているのだろう。しかし、内なる痛みを美にかえて疾走する彼女の精神は強靭であるが痛々しくもある。
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先日(10・23~29)地元浜松で個展を催した。わざわざ足をはこんでくださったみなさまに、ブログじょうですが改めてお礼もうしあげます。これらの作品は2007~2008の春にかけて制作し、4月に東京で個展を開催したものに、2,3点新作を加えたものです。
みなさんの忌憚のないご意見ご感想、たいへん感じ入りました。今後の制作の糧にしたいと思います。ただおもしろいなと思ったのは、それぞれの方の作品にたいする感想を聞き「瞑想的だ」とか「お洒落ですね」とか「フワッとして安らぐ」とかまだまだいろいろな感じ方をおしゃってくださいましたが、どれもいいえています。しかし私の作品のような具体的な形のないものを言葉にするのは難しい。それ故にその人自身の感性が意見にあらわれている、つまり私の絵を観ながら、逆に自分自身を表しているように思いました。
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オバマ氏がアメリカ大統領選に勝利した。このことはいちアメリカにとどまらず、世界中の国が求めていた結果で喜ばしいことだろう。多民族国家において、初の黒人大統領の誕生だ。白人主導の世界観に風穴を開けたことになる。まさに変革を標榜するオバマ氏を選んだアメリカは、民主主義がしっかりと機能していることを印象ずけた。私は、この事実を素直に喜びたいと思う。経済問題、イラク問題等、課題は山積みであるが粘り強く解決してもらいたい。
ただ少々心配なのは、アメリカの狂信的保守主義者、キリスト教原理主義者などによるオバマ暗殺である。現に選挙中も何人か暗殺計画で捕まっている。銃を野放しにしていることも大きな要因だ。黒人に根強い差別感情をもっている白人がいるのもまた事実であるから。
ともあれ、このことで世界が少しでも良き方向に動いてくれればよいと願うばかりだ。オバマ氏の勝利宣言をTV中継で見ていたけれど、静かな語りくちにも力強さがあり、やはりオバマってカッコイイなと思う。ひるがえってわが国は、民意も問わず経済問題を理由に居座りつずけているだみ声のおっさんは、日本をどうするつもりなのか。
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